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掛け軸の歴史

日本で古来より民衆に親しまれてきた掛け軸ですが、その掛け軸はいったいいつから存在するのか?どうやって作られたのか? 気になる方も多いのではないかと思います。

そこで今回は掛け軸の歴史と歩みをご紹介していきます。

掛け軸は飛鳥時代に、仏教の受容とともに中国から朝鮮半島を経由し日本伝えられたと言われています。
当時の掛け軸は絵画が主流ではなく、大寺院等で見かける仏画が主流でした。
鎌倉時代に入ると水墨画が水禅とともに大量に日本にもたらされ、日本でも禅宗特有のものが多く描かれ、花鳥や山水といった宗教画とは違う、観賞用の絵画も描かれるようになっていきました。
掛け軸に描かれる題材も、神仏や人物や動物、花鳥や山水と様々なものが描かれており、障屏画と同じような大きいものから、絵巻のように小さいものまで作られるようになりました。
応永年間【1394〜1427】を中心に、五山の禅僧の間で、詩画軸画人気となり、この時代掛け軸は日本で大きな注目をあつめることになりました。
その後、室町時代に入ると中国の掛け軸が人気を博し、中国絵画が国内の受容においつかなくなったのです。
そこで足利将軍に仕えていた芸術に秀でた者のなかでも能阿弥・芸阿弥・相阿弥らは当時中国の絵画をもとに水墨画を書き当時の絵画受容になったとか。
さらに京都を破壊した応仁の乱ろのときから、掛け軸は現在も主流である絵巻に変わり、広く知れ渡るようになりました。
この理由は貴族の権力が衰退したことにより下克上の世の中になり、貴族や公家といった上流階級のものから武家や民衆へと鑑賞の対象が広がったためといわれています。

今日の掛け軸には、真、行、草、という形が存在しますが、これらが形成されたのは東山時代とされています。
その理由として、書院造の完成により掛け軸をかける場所が出来たためです。
この時代の掛け軸は、着物などの本来は別のものに使用されていた裂地を使用するなど、日本独自の掛け軸が広まり始めます。

江戸時代に入り平和が安定すると道釈人物画、吉祥画などが多く描かれるようになりました。また元禄頃からは町民力が増していったのに伴い写生派や文人画家や浮世絵師といった狩野派ではない画家が人気を集め、酒井抱一のように、描き表装に挑戦する者や、日本三景や三美人画などの新しい形式にあわせた斬新な画題を描くものが増えてきました。
また茶の場を楽しむものたちは、自ら文人画家として筆をとり、娯楽のひとつとして表装を描き楽しんだとされています。

明治に入り、新しい文化が構築されると日本の絵画界も大きな変化を遂げました。日露戦争に勝ったことにより日本での西洋文化は急速に広まり、一部の者たちは西洋画に魅入られ日本画離れが起こりました。 ほとんどの日本美術史の解説書などを見てみますと、明治を代表する絵画として高橋由一や黒田清輝らの油絵作品が多く紹介されています。
これを見るとまるで日本絵画界の全てが西洋絵画に埋め尽くされたように思えますが、実際のところ西洋絵画を描いていたものは極めて一部であり、民衆の中で絵画といったら日本画を指し、多くの画家がそれまで通り日本画を描いていたといます。 民衆の住居にも床の間が作られるようになり、掛け軸はどこの家庭でも見かける一般的なものになったのです。

しかし第二次世界大戦以後は、日本の住宅様式が大きく変わったため、掛け軸と置いてある家庭が少なくなりました。

いかがでしょうか?今回は掛け軸の歴史とその歩みをご紹介しました。
掛け軸の歴史は非常に古く、その歩みの中で様々な変化を遂げていたことが分かりますね。
掛け軸の歴史を知り、掛け軸に触れることで古きよき日本の心を感じることが出来るかもしれません。
(文章の内容はご参考の範囲となりますのでご了承くださいませ。)

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